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ジャニーさん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。





 解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため先月18日から入院中だったジャニーズ事務所代表取締役社長のジャニー喜多川さんが、9日午後4時47分、87歳で亡くなった。同事務所が書面を通じ発表した。通夜・告別式についてはタレントたちとJr.のみで「家族葬」を行う。後日、「これまでお世話になりました皆様にはお別れいただく機会をご用意する予定にしておりますので、決定次第、ご案内申し上げます」としている。

 同事務所によると、ジャニーさんは先月18日の午前11時30分頃自宅で体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところ意識を失い、救急搬送された。搬送後は集中治療室で懸命な救命措置が行われた甲斐あって一般病棟に移り、タレントやJr.たちとの面会を果たすことができたという。

 入院中は毎日、さまざまな楽曲の流れる病室で、タレントたちやJr.までがジャニーさんとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていったそう。仕事の合間を縫ってタレントたちが入れ替わり立ち替わり病室を訪れ、ジャニーさんの好物を皆で賑やかに食べることが日課に。ときに危険な状態に陥ったが、タレントたちが呼びかけ、危機を脱してきた。

 タレントたちと過ごすことでジャニーさんの容態が一時的に回復するという奇跡的な出来事が繰り返されたことに、事務所は「改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供達との絆の強さを感じました」とコメント。そして、最愛の子供達の愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47分、人生の幕を下ろした。

 病に倒れる直前まで、劇場やスタジオに赴く日々を過ごしていたというジャニーさん。同事務所はそんなジャニーさんの思いについて「ジャニーが私達に最後まで言い続けていたことは、自身の意思を受け継いでくれるタレントを絶え間なく育成し、そのタレントと社員が、エンターテインメントを通じて世界中の皆様に幸せをお届けすることこそが、ジャニーズグループとして決して変わることのない思いであるということです。そして、世の中がいつまでもエンターテインメントを楽しむことができる平和で希望に満ちたみらいであり続けることを心から願っておりました」とつづった。

 そして「これからタレントと社員がその意思を受け継ぎ、一人一人が役割を果たすことで世界中にジャニーの願いが届きますよう、タレントとスタッフ一丸となり精進してまいりますので、何卒ご指導賜われますと幸甚に存じます」と呼びかけている。

 ジャニーさんは1962年にジャニーズ事務所を創業。昭和から平成にかけ、数多くの男性グループ、歌手、タレントをプロデュースし、国民的な存在へ育て上げた。2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」として、12年には「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてそれぞれギネス・ワールド・レコーズに認定されている。



https://news.yahoo.co.jp/pickup/6329556





ジャニー喜多川社長が死去、87歳 “ジャニーズ帝国”築く


 ジャニーズ事務所のジャニー喜多川(本名・喜多川擴=きたがわ・ひろむ=)社長が7月9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため都内病院で亡くなった。同事務所から発表された。87歳だった。先月18日に都内の病院に救急搬送された。搬送時に意識はなく、その後の懸命な治療も実らなかった。

 1962年に創業し、フォーリーブスや近藤真彦少年隊、SMAP、嵐ら数を輩出するなど、男性アイドルというジャンルを確立した第一人者として、一代で“ジャニーズ帝国”を築いた。戦後日本の芸能界の発展に大きく貢献。11年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録に認定された。あまりに大きな巨星が散った。

 事務所は、今月1日に救急搬送されたことを発表した際に「今もジャニーは必死に頑張っておりますので、治療に専念することを最優先とさせていただきたく、ご理解くださいますと幸甚に存じます」とした。同日に嵐のデビュー20周年記念展覧会が開幕。松本潤(35)が、声を震わせながら「一日も早く元気に回復してくれることを祈っています」と心境を吐露。救急搬送後、所属全員が病室に駆け付け「ジャニーさん」と回復を信じて呼び掛け続けた。その声、思いは届かなかった。

 高齢になっても第一線に立ち続け、事あるごとに「僕が一番(芸能界で)古いんじゃないか」と誇らしげに語っていた。17年5月に、一部で“死亡説”が取り沙汰されたことがあった。このとき85歳。「他の(同世代の)人と比べると元気ある方。皆さん、僕が死ぬのを待っているみたい。死にませんよ、絶対に。何かあったら、ご報告しますよ」と笑い飛ばしていた。

 最近まで舞台のプロデュースに精を出すなど、87歳まで“生涯現役”を貫いた。5月に10年5~6月の初演から10年目で通算500公演に到達したジャニーズJr.が中心となって上演されたシリーズ舞台「ジャニーズ銀座」には、1か月を超える公演期間の1日も欠かさず劇場に足を運んだ。「僕も毎日勉強」と軽やかな口調で語るなど、プロデュースを手がける舞台すべて、稽古から本番まで毎日、劇場に足を運んだ。最後まで意欲が衰えることはなかった。

 「ジャニー喜多川」という名は一般にも知れ渡るほどだったが、公の場に姿を見せることはほとんどなかった。顔写真を公開したことがあるのは、プロデュース業がギネス世界記録に認定された11年だけ。「ビートルズの4人の中にサングラスのマネジャーが写ってるのを見て以来、タレントと一緒に写真を撮るのはみっともないと思った」と一貫して裏方に徹した人生だった。

 高野山真言宗の僧侶だった諦道(たいどう)さんを父に持ち、生まれは米ロサンゼルス。美空ひばりさんの米公演のコーディネートしたことなどをきっかけに日本芸能界に身を置くことになった。父がプロ野球の球団「金星スターズ」(現千葉ロッテの前身球団の1つ)に関わりがあり、自身が手がけた少年野球チーム「ジャニーズ」がある。この中の4人が、そのままジャニーズ事務所第1号グループとなった。社長という肩書ながら、事務所経営は姉・藤島メリー泰子氏(92)に任せ、自身はプロデューサーとしてタレント育成で希代の才能を発揮した。

 昨年12月から今年1月にかけて、「自身の集大成」として自らの半生を舞台にした「ジャニーズ King&Prince アイランド」を上演。シリーズ9作目の同作で、最後に手がけた“デビュー組”のKing&Princeを主演に据えた。3月には、初めて製作総指揮を手掛けたジャニーズJr.総出演の「映画 少年たち」(本木克英監督)で“映画と実演”を融合させた上映ライブを企画。生涯、類いまれな発想力を失うことはなかった。

 1931年生まれ。32年には在住していたロサンゼルスで五輪を経験。初代「ジャニーズ」がデビューした64年に東京五輪を間近に触れた。来年開催の東京五輪にも並々ならぬ思いを抱いていたが、最後の夢はかなわなかった。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00010007-spht-ent





ジャニーさん「最愛の子供たちの愛に包まれながら人生の幕」タレントとの絆の強さ 容体一時回復の“奇跡”


 SMAPや嵐など数多くの男性アイドルを生み出した芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」社長のジャニー喜多川さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス生まれ。6月18日に体調不良を訴え、病院に救急搬送されて入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けた。ジャニーズ事務所は報道各社に送付した書面で訃報を報告。ジャニーさんにとって子供のような存在のタレントとの強い絆で、容体が一時的に回復したという“奇跡的な出来事”を繰り返し目の当たりにした最期の日々を明かした。

 ジャニーズ事務所の発表によると、ジャニーさんは救急搬送後、集中治療室で懸命な救命措置が取られたため、一般病院に移った。病院の協力もあり、ジャニーさんは自身にとって子供のような存在である所属タレントと面会を果たした。

 「ジャニーがタレントたちと過ごした病院での日々は、かけがえのない時間となりました。新旧、様々な楽曲の流れる病室におきまして、年長のタレントからJr.までが同じ空間でジャニーとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていきました。片時もジャニーが寂しい思いをしないよう、仕事の合間を縫ってタレントたちが入れ替わり立ち替わり病室を訪れました。ジャニーの好物を皆で賑やかに食べることが日課となり、その光景とにおいから、まるで稽古場にいるかのような感覚を覚え、皆、懐かしい記憶がよみがえりました」

 時に危険な状態に陥ることもあったが「タレントたちが呼び掛け、体を摩(さす)るたびに危機を脱することができました。タレントたちと過ごすことでジャニーの容体が一時的に回復するという奇跡的な出来事を繰り返し目の当たりにし、改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供たちとの絆の強さを感じました。そして、最愛の子供たちの愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47分、ジャニー喜多川は、人生の幕を下ろしました」。“子供”たちと過ごしたジャニーさんの最期の日々が明かされた。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00000262-spnannex-ent





どうなるジャニーズ事務所 ジュリー副社長&滝沢秀明氏“新体制”で世代交代へ


「たのきんトリオ」「少年隊」「SMAP」「嵐」などを発掘、育成し、男性アイドルブームをリードしたジャニーズ事務所社長の喜多川擴(きたがわ・ひろむ、本名ジョン・ヒロム・キタガワ)さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。87歳。米カリフォルニア州ロサンゼルス出身。6月18日から入院していた。

 ジャニー氏の訃報を受けて、ジャニーズ事務所は今後どうなるのか。新社長には、姉の藤島メリー泰子副社長(92)ではなく、その長女でジャニーさんの姪にあたる藤島ジュリー景子副社長(52 )が就任する見通しで世代交代を加速させる。

 ジュリー副社長は、グループ企業で初のレコードレーベル「ジャニーズ・エンタテイメント」の初代社長として1997年にKinKi KidsをCDデビューさせた人物。その後、嵐のプライベートレーベル「ジェイ・ストーム」や、劇場「東京・新・グローブ座」など関連各社の社長を歴任している。東京都出身で、父は小説「孤獨の人」などで知られた作家の藤島泰輔氏(故人)。

 もともと、ジャニーズ事務所は稀代のプロデューサーぶりを発揮したジャニーさんと、カリスマ的マネージメントで経営を支えたメリー副社長の姉弟が中心となってアイドル帝国を築いた。90年代からはジュリー副社長も積極的に制作や運営面などに参画。TOKIOやV6、嵐などの活動に関わってきた。制作面は叔父のジャニーさんを、運営面は母親を間近に見て学び、事務所の新体制づくりを時間をかけて進めてきた。

 さらに、昨年末には所属アイドルとして人気も実力もあった滝沢秀明氏(37)が芸能活動から引退し、裏方に転身。年明けから、新関連会社「ジャニーズアイランド」の社長として、ジャニーズJr.のプロデュースや新人発掘に従事。同社会長でもあるジャニーさんの後継者として、ジャニーズ事務所の世代交代に尽力している。

 生前のジャニーさんは、「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」としてギネス・ワールド・レコーズに認定されるなど、世界的にも記録破りの制作能力を見せつけた。一般家庭から連日送られてくる膨大な量の履歴書類などに目を通し、10歳前後の少年の写真を一目見ただけで将来的に有望かどうかを見分けられると言われてきた。こうした少年たちをジャニーズJr.の一員として、先輩アイドルたちの公演などにバックダンサーとして起用。いきなり各地のアリーナやスタジアム級の大舞台に立たせるなどして経験を積ませながら才能を引き出し、芸能史に残るアイドルを多数手がけてきた。

 その背中を最も近くで熱心に見続けてきたのが滝沢氏。ジャニーズJr.時代の10代から頻繁に行動をともにし、コンサートの演出にも関わりながら、時には助言するなど、タレント活動の一方でジャニーさんの右腕となってきた。

 ジャニーズJr.は現在、「HiHi Jets」「美 少年」「7 MEN 侍」など有望なユニットがCDデビューを目指して切磋琢磨している活況。これまでジャニーさんが手掛けていた分野は滝沢氏が引き継ぎ、采配を振るっていくことになる。

 ジャニーさんの入院中には、「ステージをつくるのはこれまでもやってきたが、メンバーと向き合うことはずっとジャニーさんがやっていた。それは新しくやるようになった」と立場も変化。経営やタレントのマネジメントを担うジュリー副社長とは密に連携を取っており、「お互いに気になったことは常に連絡を取っている。ほぼ毎日会って話をしています」と双頭体制を固めつつある。

 一方、注目されるのが、近藤真彦(54)を筆頭とする「CDデビュー組」の所属タレントの扱いについて。2016年にはSMAP解散などをめぐり、事務所の運営問題が表明化している。ベテランや中堅のアイドルたちが一枚岩に結束できるのか、ジュリー藤島、滝沢の両氏の求心力が試される。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00000266-spnannex-ent





木村拓哉「ゆっくり休めますように」ジャニーさんを追悼、ウェイボーで


芸能事務所「ジャニーズ事務所」の創業者で代表取締役社長のジャニー喜多川(本名:喜多川擴、きたがわひろむ)さんが7月9日午後、くも膜下出血のため亡くなった。87歳だった。

9日午後11時51分(日本時間)、元SMAP木村拓哉さんが自身の公式Weiboを更新。所属タレントの中でも、いち早く追悼メッセージを発表した。

<ジャニーさんは、今日まで走り抜きました。どうかゆっくり休めることを願っています。拓哉>

中国語圏で多く使われているSNS「Weibo」内でもジャニー喜多川さんの死去は大きな話題に。10日午前0時30分(日本時間)現在、トレンドワードの2位にランクインしている。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00010000-bfjc-ent





ジャニー喜多川氏死去 葬儀は「ジャニーの子供」タレントとジュニアだけの家族葬で


 「たのきんトリオ」「少年隊」「SMAP」「嵐」などを発掘、育成し、男性アイドルブームをリードしたジャニーズ事務所社長の喜多川擴(きたがわ・ひろむ、本名ジョン・ヒロム・キタガワ)さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。87歳。米カリフォルニア州ロサンゼルス出身。6月18日から入院していた。

 フォーリーブスや光GENJI、SMAP、嵐など、多くのトップスターを生み出したジャニー氏。通夜・告別式は「ジャニーの子供でございますタレント達とJr.のみ」による「家族葬」で執り行われる。

  ジャニー氏は1962年、アイドルグループ「ジャニーズ」を結成。これがプロデュースを手掛けた第1号で、メンバーには後に俳優となる、あおい輝彦(71)がいた。同年6月にはジャニーズ事務所を創業。70年代は「フォーリーブス」のほか、郷ひろみ(63)が「新御三家」としてヒット曲を連発。80年代はTBSドラマ「3年B組金八先生」に出演した近藤真彦(54)らによる「たのきんトリオ」を皮切りに、「シブがき隊」「少年隊」「男闘呼組」などを次々とブレークさせた。

  ローラースケートブームを呼んだ「光GENGI」は、「パラダイス銀河」で88年の日本レコード大賞を受賞。90年代は「SMAP」でバラエティー番組にも進出し、「TOKIO」「V6」「KinKi Kids」「嵐」らが続いた。

  こうした「CD(レコード)デビュー組」の後ろで踊り、予備軍的存在の「ジャニーズJr.」を組織化。在籍する多くの男性たちから将来的なスター性を見抜き、2000年以降もアイドルグル―プを波状輩出。18年5月のKing&Princeまで、CDデビューを果たしたアイドルだけでも通算50組前後で150人以上にのぼる。

  ダイヤモンドの原石を見つけて磨き上げ、デビューさせる稀代の制作手腕は誰にもまねできないと言われている。しかし、18年末で芸能活動を引退した滝沢秀明氏がプロデュース業など裏方に専念。“後継者”の役割を担い、ジャニーさんも「私の頼もしい後継者たちが今後も切磋琢磨して皆様が求めるエンターテイメントをお届けする為に頑張ってくれることに期待しています」と喜んでいた。

  レコード・CD制作のほか、ミュージカルなども多数手掛けて2003年には舞台の栄誉「菊田一夫演劇賞」の特別賞を受賞。11~12年には、ギネス世界記録の「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最もナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」に認定された。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190709-00000264-spnannex-ent





ジャニーさん遺産300億円相続へ きっちり遺言!?社長後任はジュリー氏に


◇ジャニー喜多川氏死去

  【緊急連載 どうなるジャニーズ(1)】ジャニーズ事務所を半世紀以上にわたってけん引し、独自の手法で数多くのトップスターを生み出したジャニーさん。日本の芸能界で、何を考え、実行してきたのか。そして、偉大なカリスマを失ったジャニーズはどうなるのか――。緊急連載で、その実像と日本最大の芸能事務所の今後に迫る。

 1962年の創業から57年。ジャニーズ事務所は芸能界で群を抜く存在だ。ファンクラブの総会員数は約500万人といわれ、年会費だけで200億円以上を稼ぎ出すとされる。これに音楽作品の売り上げやコンサートのチケット代、グッズの売り上げ、CM出演料などを加えると、グループ全体で年間収入は1000億円を軽く超える。

  資産もばく大だ。関連会社や個人名義で東京の赤坂、麻布、渋谷などの一等地にビルやスタジオ、劇場、駐車場などの不動産を所有。その数は10件以上で、推定額は計500億円。これに海外の銀行に預けた貯金などを合わせた総資産は計1000億円超といわれる。  これだけの帝国を、メリー藤島副社長との二人三脚で築き上げたジャニーさん。最後の公示となった04年度の高額納税者番付によると、当時の年収は推定約9億円。ジャニーさんを古くから知る芸能関係者は「ジャニーさんはお金に無頓着だったので、どれぐらい持っているか本人も分かっていなかっただろう」と話すが、遺産の推定額は200億円超。個人名義で所有する不動産を合わせると、300億円に達するとの見方もある。

  生前、その使い道について「タレントの育成や引退後の生活費などのために使いたい」と話していたといい、同関係者は「私利私欲のない人だったから、自分が育ててきた子供のためにという思いがあったのは間違いない。アメリカ人的な感覚を持っていたから、細かいところまできっちりと遺言書に残しているはず」と指摘する。巨額の遺産だけに、その内容が注目される。

  事務所の今後はどうなるのか。新社長には、姉のメリー副社長ではなく、その長女でジャニーさんのめいにあたる藤島ジュリー景子副社長(52)が就任する見通し。メリー副社長はその補佐をするとみられる。

  ジャニーズでは近年、タレントの独立や不祥事、世間を驚かすような出来事が頻発。今年1月には嵐が来年末で活動休止することを発表するなど、激震が続く。さらに精神的支柱だったジャニーさんを失い、タレントの間に動揺が広がる可能性がある。関係者は「ジュリーさんが、あれだけの大所帯のタレントたちをどうまとめていくのか。彼女を支える滝沢の存在は大きい。ジャニーさんが緊急搬送されてから3週間。この期間にそれぞれが抱えた不安を信頼という絆の強さへと変えることができたのか。その答えは1年後には見えてくる」と話した。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000092-spnannex-ent





ジャニー喜多川氏逝く 87歳 SMAP、嵐…帝国築いたアイドルの父


 SMAPや嵐など、数多くのトップアイドルを生み出したジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(本名喜多川擴=きたがわ・ひろむ)が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため、都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けたが、祈りは届かなかった。あまりに偉大なカリスマだっただけに、その死の影響は大きく、アイドル帝国の今後が注目される。

 先月18日に救急搬送されてから3週間。芸能界の偉大なカリスマが力尽きた。所属タレントの誰もが奇跡のカムバックを願ってきたが、その祈りは届かなかった。

  ジャニーさんは先月18日午前11時半ごろ、自宅で体調の異変を訴えて、病院に向かおうとしたところ意識を失い救急搬送された。救命措置で一般病棟に移ることができたため、タレントやジャニーズJr.との面会がかなったという。新旧のジャニーズヒット曲が流れる病室には、タレントたちが年の差を超えて集まり、ジャニーさんの好物だったハンバーガーやホタテ貝のおつまみなどを食べながら思い出を語り合った。危険な状態に陥ったときも「タレントたちが呼び掛け、体をこするたび危機を脱することができました」(事務所)という。

  スポニチ本紙の取材では、救急搬送されてから3週間、意識が戻ることはなかった。今月1日に入院が発表されて以降、落ち着いた状態が続いていたが、9日午後に突然体調が悪化。危篤状態になり、最期は家族らに見守られ、眠るように亡くなった。通夜・告別式は所属タレントとジャニーズJr.だけによる「家族葬」で執り行われる。後日、お別れの会を開く。

  日本一のアイドルメーカーとして最期まで第一線に立ち続けたジャニーさん。僧侶だった父親が布教のために行ったロサンゼルスで生まれた。1952年、朝鮮戦争で米軍の一員として朝鮮半島に派遣され、除隊後、米大使館軍事顧問団に勤務。62年に最初に発掘したグループ「ジャニーズ」を結成し、ジャニーズ事務所を設立した。

  当時は男性アイドルへの目が冷たかった時代。売れっ子を出せず苦しんだ時期もあった。それでも、歌って踊れる男性アイドルにこだわり続け、フォーリーブスや光GENJI、SMAP、嵐など、多くのトップスターを生み出した。

  手掛けたアイドルは主なデビュー組だけで45組、延べ166人。派生グループなどを含めるとこれ以上の数になる。経営など実務面を手掛けた姉のメリー藤島副社長(92)との二人三脚で、年間売り上げ1000億円超と言われるアイドル帝国を築き上げた。

  しかし、お金や名声には全く興味を示さず、男性アイドルのプロデュースを自身の使命と位置付け、そのスタイルを生涯変えなかった。ジャニーさんをよく知る芸能関係者は「タレントを発掘し育て、どう売るかを考えるのが生きがいで、その才能にもあふれていた。こんなプロデューサーは二度と出ない」と語る。

  今年から、タレントの発掘と育成業を滝沢秀明氏(37)に継承。死後への布石を打っていた。ただ、あまりに大きな存在だっただけに、その死が事務所の今後に与える影響は計り知れない。芸能界の転換点になる可能性もある。

  来年の東京五輪に向け、日本のショービジネスを盛り上げることに意欲を見せていたジャニーさん。生前、タレントに「もうボクの時代じゃない。つくるのはユーたち」と話していた。多くの人々を魅了してきた世界観は、残された者に引き継がれる。

  ◆ジャニー喜多川 本名・喜多川擴(きたがわ・ひろむ)。1931年(昭6)10月23日生まれ、米ロサンゼルス出身。62年にジャニーズ事務所を創業。ジャニーズ、フォーリーブス、光GENJI、SMAP、KinKi Kids、嵐など多くの男性アイドルを生み出した。2011年に「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」で、12年に「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」のギネス世界記録に認定された。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000087-spnannex-ent





ジャニーさんはネーミングセンスの塊…TOKIO、KAT―TUN、キスマイも


 ジャニー氏の独特なセンスは、グループ名や曲名、イベントのネーミングにおいても発揮された。

 「世界に通用する東京のグループに」といったTOKIOや、「芸能界に嵐を巻き起こす」との思いを込めた嵐などに加え、メンバーのイニシャルの頭文字を取ったKAT―TUNやKis―My―Ft2なども印象的だ。キスマイは、米国の名ダンサー、グレゴリー・ハインズが、尊敬するサミー・デービスJr.の靴にキスをしたエピソードから。同年デビューのSexy Zoneはマイケル・ジャクソンのセクシーさからインスパイアされ「xyzの後にoneが来る」と説明していた。

  曲名やイベントなどのダブルミーニングも好んでいた。タッキー&翼の初シングル「To be, To be, Ten made To be」はローマ字読みで「天まで飛べ」と引っかけたもの。また作/構成/演出を務めた17年の舞台「ジャニーズYOU&MEアイランド」では急きょ「YOU・ME」からもじった「夢」のロゴが付け加えられた。滝沢秀明の「滝沢歌舞伎」は「舞」の字の下の部分を「タッキー」に書き換えた。

  ジャニー氏の「ジャニー」は、ミドルネーム「ジョン」の愛称として呼ばれたものだったが、しばしば楽曲の中で「ジャーニー(旅)」とも表現してきた。残してきたさまざまな才能や作品に囲まれながら、ジャニー氏は天国への旅に出た。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000023-sph-ent





東山紀之「僕らにとって父親」 ジャニーさん悼む


 SMAPや嵐など、数多くのトップアイドルを生み出したジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(本名喜多川擴=きたがわ・ひろむ)が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため、都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けたが、祈りは届かなかった。

 少年隊の東山紀之(52)が10日放送のテレビ朝日「グッド!モーニング」(月~金曜前4・55)に生出演。ジャニーさんについて聞かれ「やはり父親ですよね、僕らにとっては。大変優しく僕らにも接してくれましたし、このエンターテインメントの世界では1番の方だと思うんで、僕らはその精神を受け継いで、これからも明るく楽しくやっていくっていうのが基本だと思っています」と追悼した。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000097-spnannex-ent





「TOKIO」国分太一、「ビビット」でジャニー喜多川社長の訃報に号泣…「この顔一番ジャニーさんが嫌がっていると思う」


 10日放送のTBS系「ビビット」(月~金曜・前8時)では、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川(本名・喜多川擴=きたがわ・ひろむ)社長が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血で亡くなったことを報じた。

 9日に同事務所が発表した。87歳だった。先月18日に都内病院に救急搬送され、その後の懸命な治療も実らなかった。男性アイドルというジャンルを確立し、戦後日本の芸能界の発展に大きく貢献。2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録に認定された希代のプロデューサーだった。

  MCを務める同事務所所属のTOKIO・国分太一(44)は、スタジオで号泣し「おはようございます。この顔一番ジャニーさんが嫌がっていると思うんですけど、やっぱり長かったんですよね。残念です」と声をつまらせた。「お伝えしているようにジャニーズ事務所代表取締役ジャニー喜多川が昨日亡くなりました。87歳でした。気持ちの整理が付かないまま番組の時間が来てしまいました。本当に泣いている姿見たらジャニーさん相当、怒ると思うんですけど。こんなつもりじゃなかったんですけど、すみませんジャニーさん」と涙を流した。

  その上で「ジャニーさんとの出会いは自分が13歳のころで振りかえると31年が経ちました。その31年の間にジャニーさんにはエンターテインメントの素晴らしさ、この仕事の魅力、難しさ。たくさんのことを教えてもらいました。この番組を始めるときも非常に迷いました。でも、ボクの心の中にはジャニーさんがずっと言っていた“YOUやっちゃいなよ”っていう言葉がずっと胸の中にあります。これはいろんなことをチャレンジしているジャニーズ事務所の所属タレント全員が持っている言葉です。“YOUやっちゃいなよ”っていう言葉で新たな挑戦ができるようになったんだと思っています。本当に感謝しかありません。ジャニーさん本当にありがとうございました。すみません、なんかこんなつもりじゃなかったんです。毎回泣いちゃっているわオレ」と言葉を振り絞り、亡くなった喜多川社長への思いを明かしていた。

  国分は2日放送の同番組で喜多川社長について「僕も何度も時間が空いた時は、ジャニーさんに会いにいっています」と見舞いに行っていることを明かし、「所属タレント全員がジャニーさんに元気になってもらいたいと。僕が行った時は違うグループのメンバーがいたりとか。何とかみんなでジャニーさんに復活してもらいたい」と所属タレント全員が回復を祈っているとした。

  「ジャニーさんもまだ新しいグループを作りたいと思っていると思いますし、新しいエンターテーメントを世の中に見せていきたいという気持ちがあると思います」とし、「何よりもジャニーさんが自分が元気がないことを報道されることを、すごく嫌がってると思うんですよね。申し訳ないんですけれども、温かく見守ってくれたらなと思っています」と語っていた。

  病院関係者にも「事務所からもありましたけども、本当に病院の皆さんが良くしてくれまして医師、看護師の皆さんも必死になってジャニーさんと一緒に戦っている状況なので、感謝申し上げます。本当にありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。

  最後は「また元気になった姿をこの番組でご報告できたらなと思っているので、温かい目で見守っていてください」と呼びかけた。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000047-sph-ent





ジャニーズ事務所、分裂阻止へカギはタッキー氏


 ジャニー喜多川氏が一代で築き上げた、巨大な“ジャニーズ帝国”。あまりに大きな柱を失ったことで、今後の体制に大きな影響が及ぶことは必至だ。社長業は、TOKIO、嵐らを育てためいの藤島ジュリー景子副社長(52)が受け継ぐ。一方で、ジャニー氏を父のように慕ったタレントの一部が、事務所を退社する可能性も十分に考えられる。鍵を握るのは、昨年末にタレント業を引退してジャニー氏のサポート役に回り、関連会社ジャニーズアイランド社長に就任した滝沢秀明氏(37)だ。

 初代ジャニーズのために、当時30歳のジャニー氏が62年に設立した「ジャニーズ事務所」は、創業57年の歴史を誇る。姉・藤島メリー泰子副社長(92)と二人三脚で日本を代表する一大エンターテインメント企業を作り上げた。16年1月にSMAPの解散・分裂騒動時に女性チーフマネジャーとの“派閥争い”が明るみに出た際に取り沙汰されたように、メリー副社長の一人娘・ジュリー氏が社長業を引き継ぐことは既定路線だ。

  創業者のジャニー氏の存在は唯一無二。巨星不在となり、所属タレントが退社する可能性も大いに考えられる。SMAP解散後、たびたび退社のうわさがささやかれる中居正広(46)もその1人。ただ、世間を巻き込んだ独立・分裂騒動から解散後、事務所はより細やかにタレントをケアするべく組織改編と契約の見直しに踏み切った。この陣頭指揮を執ったのが副社長のメリー、ジュリー親子だ。

  ジャニー氏が生涯プロデューサーを貫いた一方、メリー氏は創業から一貫して経営を取り仕切った。ジュリー氏はTOKIOの初代マネジャーで、その後は嵐らを育てるなど、高いマネジメント能力を発揮し、今は経営の中枢を担う。ここにジャニー氏のイズムを最も受け継ぐ滝沢氏が加わったことで、創業者不在となっても盤石と言える。一部でジュリー氏と滝沢氏の「対立」が報じられることもあるが、2人で毎日のように直接打ち合わせをするなど、しっかり手を組み、一枚岩となって事務所の運営に当たっている。

  活動スタイルが多様化した昨今、ジャニー氏の不在にかかわらず退社するタレントも出るとみられるが、“帝国”の屋台骨を揺らがすほどの分裂劇が勃発する可能性は低い。中居についても、ソロ転向後も5本のテレビレギュラー番組を持つ。ジャニー氏を慕う思いは強いが、退社となれば、これらを“整理”する必要がある。事務所内外への影響が及ばないためにも、現状のスタイルを続けるとみられる。

  ジャニー氏の個人資産は、ゆうに100億円を超えるとも言われる。今後、ばく大な遺産は若手育成、エンタメ業界の発展、また慈善事業へ寄付などに充てられるとみられるものの、事務所の経営資金も盤石だ。

  来年末には嵐が活動休止するが、世代交代が進むのではという声もある。昨年デビューしたKing&Princeが成功。ジャニーズJr.の育成も東西で順調に進み、滝沢氏が所属した時以来のJr.ブームが到来しつつある。滝沢氏が6日の会見で「ジャニーイズムをみんなで守っていく」と宣言したように一丸となって新時代に進む。



https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190710-00000030-sph-ent





ジャニーさん語録「僕が行くところに五輪来る」「モンロー日本に呼んだ」


◇ジャニー喜多川氏死去

  公の場にはほとんど姿を見せず、裏方に徹したジャニーさんだが、番記者との信頼関係を大切にした人だった。気軽に取材に対応し、自身の生い立ちから思い出話、スターたちとの交流、アイドル論まで語ってくれた。ユーモアたっぷりで含蓄ある「ジャニーさん語録」を紹介する。

  【生い立ち】

  ▼「十里ってあだ名がついちゃった」 運動神経は良かった。猿と同じで、拍手されると調子に乗って何でもやっちゃう。遠泳の授業で疲れたから背面になって休んでたら、いつの間にか十里も流された。それで「十里」ってあだ名がついちゃった。

  ▼「あっちに逃げてたら死んでましたね」 (戦争中、和歌山に疎開)午後2時15分の汽車が最後だったけど、駅員ともめて乗れなくて和歌山市駅で一人で1泊することになって、その夜空襲があった。(近くの)旅館の防空壕(ごう)はいっぱいで和歌山城の方向に逃げたら「坊や、そっちは行っちゃダメだ」と言われて。あっちに逃げてたら死んでましたね。

  ▼「キャッチャーフライは絶対に捕りましたよ」 誰もやらないからキャッチャーをやってた。キャッチャーフライは絶対に捕りましたよ。マスクを取ってフライを捕るのが得意でした。ホームランは打たないけど、器用に好きなところに打てた。

  【歴史の目撃者】

  ▼「僕が行くところに五輪が来るんですよ」 僕は当時、国立競技場の隣のビルに住んでてね。競技が見えるんです。毎日、見る気がなくても目に入りました。ロサンゼルスもたまたま(84年の)五輪の時に行っててね。(仕事が多忙で)見なかったけど。僕が行くところに五輪が来るんですよ。

  ▼「三島由紀夫さんの自殺も見ましたね」 (市ケ谷で)何か騒ぎになっているという情報が入り、行きました。僕はほら(自衛隊で)騒ぎがあったら止めなくちゃいけない側だから。(過去に米大使館勤務)

  ▼「天覧試合も球場にいましたよ」 オヤジがプロ野球パ・リーグのコミッショナーのようなことをしていたから、後楽園の年間パスをネット裏に7席くらいもらってた。天覧試合も球場にいましたよ。

  【スターとの交流】

  ▼「マリリン・モンローを日本に呼んだのもボク」(米大使館勤務時代)米軍の慰問団を呼ぶ仕事なんかもしましたよ。マリリン・モンローを日本に呼んだのもボク。

  ▼「リキさんが呼ぶから」 (力道山の後楽園球場での試合を観戦)血だらけになったリキさんが「ジャニー、こっちに来い」と呼ぶから「怖いな~」と思って行ったら「試合どうだった?」と聞かれた。「怖かった」と答えたら満足そうでしたよ。

  ▼「マイケル・ジャクソンを楽屋に連れて行ってあげたんですよ」 マイケル・ジャクソンが東京音楽祭で来てたんですよ(ジャクソン5として1973年に帝国劇場で公演)。当時11歳だったかな。ロビーの前で偶然会ったんですよ。なんかごちょごちょと言ってるから、聞いたら「ボクのいた所が分からない」って。だから楽屋に連れて行ってあげたんですよ。

  【演出家として】

  ▼「人のやったものは絶対にやらない」 他の人が手掛けたミュージカルや舞台を見て、似通うのはイヤ。自分の発想に人の発想が入るのはイヤなんです。人のやったものは絶対にやらない。自分が作った方が面白い。

  【アイドル論】

  ▼「小さい方が可愛いんですよ」 昔アイドルというのは、背が小さいほどよかったわけですよ。小さい方が可愛いんですよ。アメリカの(男性4人組)ザ・モンキーズなんかもそう。でも、それも時代とともに変わっていくもの。

  ▼「少ない方が好み」 (グループの人数は)少ない方が好み。多い世界があってもいいけど、一人一人の印象が小さくなるし、何より名前が覚えられないですよ。

  ▼「ボクはいろんなことができる人が好き」 (ジャニーズ創業当初は)日本は芸が一つあればいいというスタイルだった。歌でも三味線でもただ立って演じていればよかった。でも(ジャニーズの出発点の)ミュージカルは歌って踊れて演じられないといけない。だから、ボクはいろんなことができる人が好きだった。

  ▼「CDデビューが夢というのは小さいよ」 みんながそんなにCDを出すことにこだわっていたとは知らなかった。CDデビューが夢というのは小さいよ。デビュー以前にいろんなことを勉強するのが大事で、そうじゃないとつぶれちゃう。CDを一発出して終わったら哀れでしょう。CDを売ってからその人を売るのは逆にかわいそう。CDが売れない人は劇場が使ってくれなくなる。

  ▼「アイドルも遠慮なく結婚すべき」 遠慮なく適齢期になったら結婚すべき。奥さまが必要だし、子供も必要。人として当然のことで、なかったらかわいそうですよ。本人の責任のもとで結婚するわけだし「人気が落ちたりするのはプロダクションのせい」と思う人もいない。(年齢も)いくつでもいい。我々は応援するだけ。

  ▼「作るのはおまえたちという時代」 ああやれ、こうやれと言ったのは30年前。だんだん言えなくなった。(時代に合った)表現の仕方に変えていかなくちゃいけない。80歳のおじいちゃんにそれは無理。どこまでやれるかは本人たち次第。作るのはおまえたちという時代。



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ジャニー喜多川さん死去、芸能界の情勢が一気に変わる可能性も


 たのきんトリオ、SMAP、嵐ら人気男性アイドルを数多く輩出したジャニーズ事務所の社長、ジャニー喜多川(本名・喜多川拡=ひろむ)さんが9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血で死去した。87歳だった。

  ジャニーさんの急死は、芸能界の情勢を一気に変える可能性をはらんでいる。

  ジャニーズ事務所は、1979年のたのきんトリオ誕生以降、男性アイドル人気をほぼ独占してきたが、ここ数年異変が起こっている。絶対的な人気を誇ったSMAPが2016年に解散、来年いっぱいで嵐が活動を休止する。

  事務所経営やマネジメント業務は姉の藤島メリー泰子氏(92)と、娘の藤島ジュリー景子氏(52)が担っているとはいえ、絶対的なカリスマが突然この世を去った影響は大きい。

  育成部門の後継者に指名した滝沢秀明氏(37)も裏方としてプロデュース業に専念して半年足らず。タレントからの人望は厚いが、ジャニーさんほどの求心力は持ち得ていない。元SMAPの3人が独立したように退所しようとするタレントが現れたとき、ジュリー氏と滝沢氏がどこまで引き留められるのか。

  また、男性アイドル界には舞台を主戦場とした2・5次元アイドルが現れるなど新興勢力も力をつけている。ジャニーさん亡きあと、新しいスターをどれだけ生み出せるか正念場だ。



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嵐がジャニー喜多川氏を追悼 松本潤「1本の電話で僕の人生を変えた」


 ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川氏の訃報を受けて10日、近藤真彦(54)、木村拓哉(46)、KAT-TUN、嵐、関ジャニ∞、NEWS、Sexy Zone、A.B.C-Z、ジャニーズWEST、生田斗真(34)、中山優馬(25)ら所属タレントたちが所属事務所を通じ、追悼メッセージを寄せた。

 嵐・大野智「ジャニーさん。長い間、本当にご苦労様でした。ジャニーさんと出会えたことで僕の人生は大きく変わりました。嵐をつくってくれてありがとう。まだ何の実感もないですが。感謝です。感謝でしかないです。ゆっくり休んでねジャニーさん。本当にありがとう」

  嵐・櫻井翔「ジャニーズ事務所の一員として人生を歩むこととなるのも、人生を“嵐の一員”として歩むこととなるのも、ジャニーさんがいてこそです。いま、エンターテイメントの世界に身を置くすべての源泉は、あの日あの時に僕を見つけてくれたから。どうかゆっくり休んで下さい。眠っているかのような顔を見ると、ふと声が聞こえてきそうでした。本当にありがとうございました」

  嵐・相葉雅紀「ジャニーさんには感謝しかありません。ジャニーさんに教えてもらったことと思いは一生忘れません。本当にありがとうございました。本当に本当にお疲れ様でした」

  嵐・二宮和也「収録中に今回の訃報を聞き、収録終わりで駆けつけ最後に皆で挨拶ができて良かったです。ジャニーさんには感謝しかありません。この感謝を返せるようにこれからも頑張っていこうと思います」

  嵐・松本潤「23年前、一本の電話で僕の人生を変えたのはジャニーさんです。それから数々の夢を見せてもらいました。もっとジャニーさんの作るショーが観たかった。もっと話がしたかったです。ジャニーさん、僕をエンターテイメントの世界へ導いてくれてありがとう。そして嵐をつくってくれてありがとう。心よりご冥福をお祈りいたします」

  近藤真彦「さすがジャニーさん、最後まで最高なセルフマネージメントでした。長男でいながら、何度も泣いちゃいました。叱られそうです」

  木村拓哉「常に現場に立ち続けた姿勢を手本にさせて頂きます。ゆっくりと、休んでください」



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